地域社会DX / ナレッジDX / 暗黙知

『遠野物語』からみる地域ナレッジDX

柳田國男『遠野物語』を、地域社会DXにおけるナレッジDXの視点から読み直します。地域の暗黙知を形式知に変え、地域へ返し続ける仕組みを、国内外の実践事例とともに考えます。

地域の語り、災害記憶、市民参加、ナレッジネットワークを象徴する地域ナレッジDXのイメージ
地域の語り・災害記憶・市民参加・データを、地域へ返し続けるナレッジDXのイメージ。

この記事でわかること

1.地域社会DXにおける「ナレッジDX」をどう定義できるか
2.『遠野物語』を、地域の暗黙知を形式知化した営みとしてどう読み直せるか
3.地域の知を集めるだけでなく、地域へ返し続ける循環がなぜ重要なのか
4.ちばレポ、自然災害伝承碑、LocalWiki、Map Kibera、Decidim、PLATEAUなどから何を学べるか
5.自治体や地域団体が、最初に整備すべきナレッジ項目は何か

地域社会DXにおけるナレッジDXの定義

地域社会DXにおけるナレッジDXとは、地域に分散している経験、記憶、場所、語り、行政記録、住民の声を、地域自身が使える知識基盤として記録・共有・更新していく取り組みです。

ここで大切なのは、地域の知を単に集めることではありません。地域から生まれた知を、行政や専門家だけが持つのではなく、地域の住民に返すことです。そして、地域の人がそれを使い、また新しい知を重ねていく循環をつくることです。

その意味で、柳田國男の『遠野物語』は、現代の地域ナレッジDXを考えるうえで、非常に示唆的な一冊です。

もちろん、柳田國男が現代的な意味でのDXを意識していたわけではありません。本稿では、『遠野物語』を現代の地域社会DXの視点から読み直し、地域の語りを聞き取り、記録し、分類し、社会へ共有した営みを「暗黙知の形式知化」として捉えます。

1. 『遠野物語』は、聞き書きによる地域ナレッジでした

『遠野物語』は、1910年に柳田國男によって刊行されました。青空文庫の作品データでは、作品名を『遠野物語』、著者名を柳田国男、初出を1910年6月14日としています。また、国立国会図書館は柳田國男を「日本民俗学の創始者」とし、1910年に日本民俗学の嚆矢となる『遠野物語』を著したと説明しています。

その出発点にいたのは、遠野の人である佐々木喜善です。佐々木喜善が語った遠野の伝承を、柳田國男が聞き取り、筆記し、ひとつの書物へと編み直しました。『遠野物語』の初版序文には、「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」とあります。

地域の語り手が持っていた記憶を、外部の記録者が受け取り、言葉にし、社会に共有した営み。それは現代風に言えば、「地域の暗黙知を形式知化するプロセス」です。

地域の人が身体感覚として知っていること。どの山に入ると危ないのか。どの川には近づきすぎてはいけないのか。どの家にはどのような歴史があるのか。どの道は、かつて人や馬や物資が行き交った場所なのか。どの祭りや信仰が、暮らしの秩序を支えていたのか。

こうした知は、必ずしも台帳や統計に残りません。けれども、地域社会にとってはきわめて重要です。『遠野物語』は、そのような地域の知を、物語という形式で残した書物として読むことができます。

2. 怪異は、地域のメタデータです

『遠野物語』を読むと、山人、河童、ザシキワラシ、オシラサマ、神隠しなど、多くの怪異が登場します。一見すると、それらは非合理な昔話に見えるかもしれません。しかし、地域ナレッジDXの視点から見ると、怪異は単なる空想ではなく、土地に結びついた記憶のタグでもあります。

山の話

山に入って戻らなかった人の話は、山という空間の危険性や境界感覚を伝えています。

水辺の話

河童の話は、水辺に対する畏れや注意、子どもを水難から守る知恵と結びついて読むことができます。

家の話

ザシキワラシの話は、家の盛衰や共同体の記憶と結びついています。

生業の話

オシラサマの話は、馬や養蚕といった地域の生業とも関係しています。

現代のデータベースに置き換えるなら、怪異や伝承は「場所」「人物」「出来事」「危険」「生業」「信仰」「記憶」を結びつけるメタデータです。

実際に『遠野物語』本文には、地勢、神、家の神、オシラサマ、ザシキワラシ、山の神、天狗、山男、山女、家の盛衰、前兆、河童、狼、雨風祭、歌謡など、話題ごとの分類が置かれています。これは、地域の語りを単なる断片ではなく、関係性をもった知として整理しようとする営みとして読むことができます。

3. 地域の暗黙知は、いまも各地に残っています

現代の地域社会にも、『遠野物語』と同じような暗黙知は数多く存在しています。

  • 雪の多い地域では、凍りやすい交差点や吹き溜まりになりやすい道路を、地域の人が経験として知っています。
  • 商店街では、人が動く曜日、客層が変わるイベント、地域の相談役になっている店を、現場の人が肌感覚で知っています。
  • 自治体職員には、過去の事業の経緯、地域団体との関係、災害時の対応経験、補助金事業の勘所が蓄積されています。
  • 地域おこし協力隊には、地域に入る際の距離感、相談すべき相手、やってはいけない振る舞いなど、制度のマニュアルには載らない知があります。

重要であるにもかかわらず、記録されにくい。記録されても検索できない。検索できても文脈がわからない。文脈がわからないから、次の人が活用できない。ここに、地域ナレッジDXの必要性があります。

4. 地域ナレッジDXは、標準データと地域の語りをつなぐものです

地域ナレッジDXは、昔話や聞き取りをデジタル保存するだけの取り組みではありません。聞き取り、議事録、写真、地図、古い広報紙、地域資料、行政データ、観光情報、防災情報、商店街の記録、地域おこし協力隊の日報、住民の声などを、相互に結びつけていくことです。

デジタル庁の自治体標準オープンデータセットでは、公共施設一覧、文化財一覧、指定緊急避難場所一覧、観光施設一覧、イベント一覧など、自治体が整備・公開しやすいデータ項目が示されています。これは、地域情報を再利用可能な形に整える基盤になります。

ただし、標準化されたデータだけでは、地域の厚みは十分に表現できません。そこに、聞き取り、物語、写真、地名、経験、語りを重ねる必要があります。

地域社会DXにおけるナレッジDXとは、標準化された行政データと、地域の人々が持つ経験知や記憶をつなぎ、地域が使える知識基盤として育てていく取り組みなのです。

5. 地域に返すナレッジ循環モデル

地域ナレッジDXは、情報を集めて終わりではありません。地域から生まれた知を、地域へ戻し、また次の行動や記録につなげることが大切です。

気づく。
住民、職員、事業者、地域団体、協力隊が、地域の困りごと、記憶、危険、価値に気づきます。
記録する。
写真、位置情報、聞き取り、議事録、日報、古い資料、行政データとして残します。
共有する。
行政内部だけではなく、地域の人が見られる形に整理し、検索できるようにします。
返す。
防災学習、まちづくり、観光、福祉、移住支援、地域教育など、地域の行動に戻します。
更新する。
使われた知がまた新しい記録を生み、次の世代が参照できる知識基盤になります。

6. 国内外の実践事例

地域の情報を地域の住民に返し、連綿とつないでいく事例は、国内外にあります。ここでは、地域ナレッジDXの循環を考えるために、代表的な事例を整理します。

地域課題を返す
千葉市「ちばレポ」と My City Report

日本・千葉県千葉市で始まった「ちばレポ」と、その流れを受けた My City Report は、市民がまちの「こまった」を投稿し、自治体と共有できる市民協働投稿サービスです。

記事での読み方

道路の穴、倒木、公園の破損、危険箇所といった日常の気づきが、写真と位置情報で記録され、一覧やマップで地域に返されます。これは現代版の「地域の聞き書き」と言えます。

災害記憶を返す
国土地理院「自然災害伝承碑」

日本全国を対象に、国土地理院が進めている取り組みです。過去の洪水、土砂災害、地震、津波などを伝える石碑やモニュメントを地図上で公開しています。

記事での読み方

地域に残された災害の記憶が、国の地図基盤に載り、学校教育、防災学習、地域点検に返されます。これは、土地に刻まれた危険の記憶を現代の地図として返す取り組みです。

地域自身が書く
LocalWiki と Map Kibera

LocalWiki は世界各地のローカルな知識を共有する草の根の取り組みです。Map Kibera は、ケニア・ナイロビのキベラ地区を住民自身がデジタル地図として可視化した事例です。

記事での読み方

地域を「外から見られる対象」ではなく、「地域自身が記述する主体」として位置づけ直しています。地域の歴史、生活情報、水場、学校、安全な場所、危険な場所などを住民自身が残します。

意思決定へ返す
Decidim と Code for Japan

Decidim は市民参加のためのデジタルプラットフォームです。日本では Code for Japan が導入・活用を支援し、品川区や加古川市などの事例を紹介しています。

記事での読み方

地域の声を集め、可視化し、政策や計画に戻す仕組みです。地域ナレッジDXは、単なる保存ではなく、地域の未来を決める材料にすることでもあります。

関係性を返す
CiNii Research のナレッジグラフ

国立情報学研究所の CiNii Labs は、2025年6月に CiNii Research ナレッジグラフ検索機能の試行開始を公表しました。

記事での読み方

論文や研究データなどの関係性をたどる考え方は、地域ナレッジにも応用できます。伝承、地名、災害履歴、文化財、人物、祭礼、産業を関係性の網として見える化する発想です。

空間の記憶を返す
国土交通省 PLATEAU と XR

国土交通省 PLATEAU では、東京都八王子市北野地区、広島市中区・南区の紙屋町・八丁堀・相生通りを対象に、XR技術を活用した市民参加型まちづくりの実証が行われました。

記事での読み方

3D都市モデルやXRは、地域の記憶や未来像を同じ空間上で共有する技術です。行政が考える未来、住民が心配する変化、高齢者が覚えている昔の風景を、議論の場に戻すことができます。

7. DXは、地域の物語を消すものではありません

地域ナレッジDXは、地域の物語を単純なデータに変換することではありません。民話をタグに分解し、地名を座標に置き換え、祭りをイベントデータにし、聞き取りを要約するだけでは、地域の文脈は失われます。

必要なのは、データ化してもなお、語りの厚みを失わない設計です。誰が語ったのか。いつ語ったのか。どの場所で語られたのか。どの世代に伝わっていたのか。その話は、地域の暮らしの何を支えていたのか。公開してよい情報なのか。地域の人にとって、外部に開かれたくない意味を含んでいないか。

地域の知は、オープンにすればよいというものではありません。公開すべき知もあれば、地域の内側で丁寧に扱うべき知もあります。だからこそ、地域ナレッジDXには、技術だけでなく編集倫理が必要です。

AIやデータベースを導入すれば、地域の知が自然に残るわけではありません。何を残すのか。どう残すのか。誰が確認するのか。誰が使うのか。誰のために残すのか。この問いを持たなければ、地域ナレッジDXは単なる資料整理で終わってしまいます。

8. 実務者向け:地域ナレッジDXで整備すべき5つの情報

自治体や地域団体が地域ナレッジDXを始める場合、最初から巨大なデータベースをつくる必要はありません。まずは、地域の中にある「失われやすい知」を見つけ、記録し、検索できる形にすることが大切です。

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まとめ――地域の知を、やさしく未来へ手渡すために

『遠野物語』は、遠野という土地に生きた人々の語りを、柳田國男という書き手が受け取り、文体を与えた書物です。現代の視点から読み直すなら、それは地域の暗黙知を形式知へと変換した営みでした。

地域社会DXも、同じ問いの前に立っています。地域に眠る知を、どう記録するのか。どう分類するのか。どう検索できるようにするのか。どう次世代へ渡すのか。どう地域の人自身が使える形にするのか。

大切なのは、大きなシステムを入れることだけではありません。地域の人が持っている記憶や経験を、無理なく残し、必要な人が見つけられるようにし、地域の学びや判断に戻していくことです。

地域ナレッジDXは、地域の知を吸い上げる技術ではありません。地域の知を、地域に返し続ける仕組みです。

かつて柳田國男が、聞き書きという方法で遠野の物語を未来へ手渡したように、現代の私たちは、デジタルという方法で地域の記憶を未来へ手渡すことができます。

その循環を、地域の人たちと一緒に、少しずつ育てていくこと。そこに、これからの地域社会DXにおけるナレッジDXの大切な役割があるのではないでしょうか。

参考文献・参考資料

柳田國男『遠野物語』関連

青空文庫『遠野物語』図書カード
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/card52454.html

青空文庫『遠野物語』本文
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52454_77357.html

国立国会図書館「柳田國男|近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6076/

自治体オープンデータ・地域情報基盤

デジタル庁「自治体標準オープンデータセット」
https://www.digital.go.jp/resources/open_data/municipal-standard-data-set-test

国内事例:地域課題・災害記憶

My City Report 公式サイト
https://www.mycityreport.jp/

千葉市「ちばレポ(My City Report)」
https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/shichokoshitsu/kohokocho/chibarepo.html

国土地理院「自然災害伝承碑」
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

海外・市民参加事例

LocalWiki 公式サイト
https://localwiki.org/

Map Kibera 公式サイト
https://mapkibera.org/

Decidim 公式サイト
https://decidim.org/

Code for Japan「Decidim」
https://www.code4japan.org/activity/decidim

ナレッジグラフ・3D都市モデル

CiNii Labs「CiNii Research ナレッジグラフ検索機能試行開始」
https://labs.ci.nii.ac.jp/news/newsdetail_20250612_01.html

国土交通省 PLATEAU「XR技術を活用した市民参加型まちづくりv2.0」
https://www.mlit.go.jp/plateau/use-case/uc23-08/

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